アーノルト・シェーンベルク 伝記

1874 – 1889

Arnold Schönberg, around 1926 Arnold Schönberg, around 1926

アーノルトArnold(ヘブライ語でアブラハムAvraham)シェーンベルクSchönberg, 1974年9月13日生

私の両親の経歴の中に、目立つものはほとんどありません。 私の父 は、1838年に生れ、14歳でウィーンにやってきました。そこで見習いとして働き、その後、自分の小さな商いを始めました。彼は、32歳で結婚しました。私は第二子で、父が36歳のときに生れたのです。父は、1890年に流行していたインフルエンザにかかり、52歳でなくなりました(大晦日に)。私はそのとき16歳で、ほとんど覚えていないのです。〔…〕 私の母は、1848年にプラハで生まれました。若い頃に、父の家族と共にウィーンへ越してきたのです。彼女は、74歳まで生きていました。
(アーノルト・シェーンベルク『伝記的覚書』、
1931年11月28日)

シェーンベルクは、1885年から1891年まで、 ウィーン第2地区の実業中等学校に通う

私は、8歳でヴァイオリンを始め、すぐさま作曲も始めました。〔…〕17歳頃までに私が作曲した作品はすべて、当時、私が知り得た音楽の模倣以上のものではありませんでした。私の唯一の拠り所は、一方では、ヴァイオリン二重奏曲やオペラの二重唱の編曲、もう一方では、公園で演奏していた軍楽隊のレパートリーでした。当時は、印刷楽譜は非常に高価であったことや、まだレコードもラジオもなかったことを忘れてはなりません。また、ウィーンにはまだ一つのオペラ劇場があるのみで、一年間に8回のフィルハーモニーコンサートが開かれているだけだったのです。
(アーノルト・シェーンベルク『私の進化』、1949年)

「コガネムシ」ポルカ・フランセーズ、1885年頃

1890 – 1899

1891年から1895年、シェーンベルクは ヴェルナー&コー銀行 に勤める

1896年11月22日、シェーンベルク指揮による、メートリンクの合唱団「フライジン」との 最初のコンサートの批評

2つの歌曲 作品1(1899)――バリトンとピアノのための―― 1. Dank (Karl von Levetzow) 2. Abschied (Karl von Levetzow)

《浄夜》作品4(1899)――2艇のヴァイオリン、2艇のヴィオラ、2艇のチェロのための六重奏曲―― Sehr langsam Breiter (T. 100) Schwer betont (T. 201) Sehr breit und langsam (T. 229) Sehr ruhig (T. 370)

あなたの詩は、作曲家として私が成長していくうえで決定的な影響を与えました。それらは、抒情的な雰囲気のなかで、新しい音調を発見するよう私を誘った初めてのものでした。〔…〕あなたの詩に作曲するという私の最初の試みは、より新しい私の作品のいくつか以上に、私が後になって発展したことを包含しているのです。
(アーノルト・シェーンベルクからリヒャルト・デーメル宛、1912年12月13日)

ガヴォットとミュゼット(旧様式で)(1897)――弦楽オーケストラのための――

弦楽四重奏曲 第1番 作品7(1904/1905)――2艇のヴァイオリン、ヴィオラとチェロのための――) Hauptteil »Scherzo« »Adagio« »Rondo. Finale«

《春の死》(1898年、断片)――レーナウの原作に基づく、大オーケストラのための――

大体私と同じ年齢の3人の青年と出会い、彼らと友人となってようやく、私の音楽的・文学的な教育が始まりました。先ずは、 オスカー・アドラー。彼の音楽家としての才能は、その科学における能力と変わらぬすばらしいものでした。彼をつうじて、私は音楽理論の存在を学び、彼はそこに至る第一歩を導いでくれたのです。〔…〕当時の二人目の友人が、 ダーヴィト・バッハです。言語学者で哲学者にして、文学と数学に通じていました。彼もまたすばらしい音楽家でした。〔…〕そして3人目。作曲をするうえでの技術や問題点に関する私の知識のほとんどを、私はこの人物に負っています。 Alexander von Zemlinskyです。
(アーノルト・シェーンベルク、『私の進化』、1949年)
『マイアー百科事典(私たちが分割払いで買った事典)』は、長いこと待ち望んでいた文字「S」に到達した。「ソナタSonata」の項目で、弦楽四重奏曲の第1楽章がどのように構築されるべきかを学ぶことができた。
(アーノルト・シェーンベルク『4つの弦楽四重奏曲についての覚書』、1949年)

1898年3月25日、アーノルト(洗礼名、フランツ・ヴァルターFranz Walter)・シェーンベルクはプロテスタントに改宗

1900 – 1904

私は、リヒャルト・シュトラウスの仲介で、 シュテルン音楽院で教えることとなりました。本当に、リヒャルト・シュトラウスのおかげなのです。この最もすばらしく高潔な、心温かな人物のおかげです。〔…〕彼は、私のためにリスト奨学金までも獲得してくれたのです。
(アーノルト・シェーンベルクから、カール・レートリヒ、ヨゼフィーヌ・レートリヒ宛、1903年4月1日)

1901年12月から1902年7月の間、シェーンベルクは、ベルリンにあった エルンスト・フォン・ヴォルツォーゲンのカバレット、ブンテス・テアター(ユーバーブレットル)で、音楽指揮者として働く

ブレットル・リーダー(カバレット・ソング) 1. Der genügsame Liebhaber (Hugo Salus) 2. Einfältiges Lied (Hugo Salus) 3. Der Nachtwandler (Gustav Falke) mit Begleitung von Kleiner Flöte, Trompete, Kleiner Trommel und Klavier 4. Jedem das Seine (Colly, Vorname unbekannt) 5. Mahnung (Gustav Hochstetter) 6. Gigerlette (Otto Julius Bierbaum) 7. Galathea (Frank Wedekind) 8. Langsamer Walzer Aus dem »Spiegel von Arcadia« von Emanuel Schikaneder

1901年10月18日、シェーンベルクは、友人であるアレクサンダー・ツェムリンスキーの妹 マティルデ・ツェムリンスキー(1877‐1923)と結婚

交響詩《ペレアスとメリザンド》作品5(1902/1903)――オーケストラのための―― Anfang Heftig Lebhaft [9] Sehr rasch [16] Ein wenig bewegt [33] Langsam [36] Ein wenig bewegter [43] Sehr langsam [50] Etwas bewegt [55] In gehender Bewegung [59] Breit [62]

私は、この音楽は〔…〕《グレの歌》や《浄夜》よりもはるかに発展していると見なしています。それは、本当に美しい。
(シェーンベルク、1947年)

6つの管弦楽伴奏付き歌曲 作品8(1903‐1905) 1. Natur (Heinrich Hart) 2. Das Wappenschild (Fliegendes Blatt aus »Des Knaben Wunderhorn«) 3. Sehnsucht (aus »Des Knaben Wunderhorn«) 4. »Nie ward ich, Herrin, müd...« (Petrarca) 5. »Voll jener Süße...« (Petrarca) 6. »Wenn Vöglein klagen...« (Petrarca)

この時、私は、テキストとオーケストレーションのすべての芸術的要素を統一するという課題を自分に課していました。
(シェーンベルク、1904年)

アーノルト・シェーンベルクの娘ゲルトルート(トゥルディ、1902‐1947)、1904年頃

グスタフ・マーラー(1860‐1911) との友情のはじまり

シェーンベルクによる音楽活動の様々な領域。ピアノ・スコア、オーケストレーション、他の作曲家による作品の編曲や数字付き通奏低音の和声付け

シェーンベルクは、まさに確実に、反対者を刺激する燃えるような激しい情熱をもつ人物の一人です。しかし、疑いなく、刺激と運動を呼び起こす人物です。そして、常に、人々の精神を鼓舞し、有益な影響を与えていたのです。
(グスタフ・マーラー、1910年)

1904年、アルバン・ベルク(1885‐1935)とアントン・ヴェーベルン(1883‐1945)が、シェーンベルクの生徒となる

1905 – 1909

《地上の平和》作品13(1907/11)――ア・カペラ混声合唱のための――

私は、作曲している間の感情的なすべてのニュアンスを、意識して覚えているとは言えません。しかし、それらが今そこにあるとき、私はそれらを単なる幸運な符号以上のものと見なします。むしろ、慈悲深い贈り物なのです。私がそれに価するよう尽力するような、慈悲深い贈り物なのです。
(シェーンベルク、1913年)

室内交響曲 第1番 作品9(1906/1936)――15の独奏楽器のための――

この作品は、私の発展における真のターニング・ポイントです。〔…〕単一楽章で作曲してきた、私の第一期の最後の作品です。
(シェーンベルク、1949年)

アーノルト・シェーンベルク、彼の息子ゲオルク(ゲルギー)の肖像画(ゲオルク、1906年9月22日生)。厚紙に描かれた油絵、1907年

弦楽四重奏曲 第1番 作品7(1904/1905)――2艇のヴァイオリン、ヴィオラとチェロのための―― Hauptteil »Scherzo« »Adagio« »Rondo. Finale«

この大形式は、ソナタに含まれる4つの性格すべてを、中断のない単一楽章の中に含むものでした。
(シェーンベルク、1949年)

リヒャルト・ゲルストル、アーノルト・シェーンベルクの肖像画、カンバスに描かれた油絵、1906年(ウィーン美術館)

1908年、マティルデ・シェーンベルクと25歳の画家リヒャルト・ゲルストルの情事。同年11月4日、ゲルストルは自殺

シェーンベルクの様々な興味関心とその成果。 音楽タイプライター、彼の設計図、1909年

弦楽四重奏曲 第2番嬰ヘ短調 作品10(1907/08)――2艇のヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとソプラノのための―― 1. Satz: Mäßig (moderato) 2. Satz: Sehr rasch 3. Satz: Litanei (Stefan George). Langsam 4. Satz: Entrückung (Stefan George). Sehr langsam

この四重奏曲は、私の発展において重要な役割を果たしました。けれども、無調性とよばれる方向への決定的な進展は、まだ実現されていませんでした。
(シェーンベルク、1949年)

3つのピアノ曲 作品11(1909/10) Nr. 1: Mäßig Nr. 2: Mäßige Achtel Nr. 3: Bewegt

すべての和音が、表現に対する私の欲求からの衝動なのです。しかし、ことによると、和声構造における避けがたく、無意識な必然性からの強制でもあるのでしょう。
(シェーンベルク、1911年)

《架空庭園の書》作品15(1907-1909)――シュテファン・ゲオルゲによる『架空庭園の書』からの15の詩に基づく、歌とピアノのための―― 1. »Unterm Schutz von dichten Blättergründen...« 2. »Hain in diesen Paradiesen...« 3. »Als Neuling trat ich ein in dein Gehege...« 4. »Da meine Lippen reglos sind und brennen...« 5. »Saget mir auf welchem Pfade...« 6. »Jedem Werke bin ich fürder tot...« 7. »Angst und Hoffen wechselnd sich beklemmen...« 8. »Wenn ich heut nicht deinen Leib berühre...« 9. »Streng ist uns das Glück und spröde...« 10. »Das schöne Beet betracht ich mir im Harren...« 11. »Als wir hinter dem beblümten Tore...« 12. »Wenn sich bei heilger Ruh in tiefen Matten...« 13. »Du lehnest wider eine Silberweide...« 14. »Sprich nicht mehr von dem Laub...« 15. »Wir bevölkerten die abend-düstern Lauben...«

ゲオルゲの歌曲で、初めて、数年間私の心の中にありつづけた、表現と形式の理想に近づくことに成功しました。決然とこの道に足を踏み出した今、過去の美学のあらゆる制約を打ち破ったと自覚しています。
(シェーンベルク、1911年)

5つの管弦楽曲 作品16 1. Vorgefühle [Premonitions] 2. Vergangenes [Bygone] 3. Farben [Colors] 4. Peripetie [Climax] 5. Das obligate Rezitativ [The obligatory recitative]

これら5曲は、短い(1分から3分の)オーケストラ楽曲ですが、連作的な関連性はありません。〔…〕音色、リズムそして雰囲気の、鮮明で、絶え間ない交替。
(シェーンベルクからリヒャルト・シュトラウス宛て、1909年)

《期待》作品17(1909)――1幕のメロドラマ―― »Hier hinein?...« (1. Scene) »Ist das noch der Weg?« (2. Scene) »Da kommt ein Licht!...« (3. Scene) »Er ist auch nicht da...« (4. Scene) »Das Mondlicht...« »Aber so seltsam ist dein Auge...« »Du siehst wieder dort hin!...« »Für mich ist kein Platz da…« »Liebster, Liebster, der Morgen kommt…«

《期待》のねらいは、1秒のうちに生ずる強烈な感情的不安や動揺を、ゆっくりとした動きで、30分にまで延長して表現することにあります。
(シェーンベルク、1930年)

1910 – 1914

友人にして、助言者、崇拝していた芸術家の死。1911年5月18日、グスタフ・マーラー死去

6つのピアノ小曲 作品19(1911)第6曲は、墓碑銘のような、グスタフ・マーラーへの賛辞、1911年6月17日 Nr. 1: Leicht, zart Nr. 2: Langsam Nr. 3: Sehr langsam Nr. 4: Rasch, aber leicht Nr. 5: Etwas rasch Nr. 6: Sehr langsam

簡潔で、信じられないほど繊細で表情豊かな創作品。
(アントン・ヴェーベルン、1912年)

『和声学』(1911)

私は、この本を生徒たちから学びました。〔…〕私は、作曲の学生たちの悪い美感を減らし、代わりに、熟達へとつながる道筋を与えてきました。
(シェーンベルク、1911)
シェ-ンベルクの絵画は、2つのカテゴリーに分類されます。一つは、完全に自然に、つまり人々や風景のようなものに引きつけられている絵画群であり、もう一方は、直観的に心に抱いた頭、彼が言うところの「ヴィジョン(幻影)」に分類される絵画群です。〔…〕それら両カテゴリーは、外面上はかなり異なっています。しかし、内的には、一つの同じ魂から生れてくるのです。ときおり、外的な自然によって震わされ、別のときには、それ自体の内にある本性によって揺さぶられる魂から生れるのです。
(ヴァシリー・カンディンスキー、1912年)

絵画と素描、アーノルト・シェーンベルク画

カンディンスキーの招待により、1911/12年、シェーンベルクは、ミュンヘンの 「青騎士Der Blaue Reiter」最初の展覧会に自身の4つの絵画作品を展示

《月に憑かれたピエロ》アルベール・ジローの3部各7編の詩 作品21(1912) 1. Mondestrunken 2. Columbine 3. Der Dandy 4. Eine blasse Wäscherin 5. Valse de Chopin 6. Madonna 7. Der kranke Mond 8. Nacht (Passacaglia) 9. Gebet an Pierrot 10. Raub 11. Rote Messe 12. Galgenlied 13. Enthauptung 14. Die Kreuze 15. Heimweh 16. Gemeinheit 17. Parodie 18. Der Mondfleck 19. Serenade 20. Heimfahrt 21. O alter Duft

私は、表現の新しい方向へと決定的に動いていると感じています。響きは、まさに、官能的、精神的なさまざまな感情を、アニマリズム的に直接的に表現しています。
(シェーンベルク、1912年)

ベルリンへの移住。 1912年、アーノルト・シェーンベルクは、彼の子供たちトゥルディとゲルギーとともに、街はずれのヴィラ・レプッケ(ツェーレンドルフ、マホノファー街道&ディートロフ通り)に移住

《グレの歌》(1900-03/11)――ソロ、合唱とオーケストラのための、詞イェンス・ペーター・ヤコブセン―― Teil I
Orchester-Vorspiel (No. 1) »Nun dämpft die Dämm’rung jeden Ton« (No. 2) »Oh, wenn des Mondes Strahlen milde gleiten« (No. 3) »Roß! Mein Roß! Was schleichst du so träg!« (No. 4) »Sterne jubeln, das Meer, es leuchtet« (No. 5) »So tanzen die Engel vor Gottes Thron nicht« (No. 6) »Nun sag ich dir zum ersten Mal« (No. 7) »Es ist Mitternachtszeit« (No. 8) »Du sendest mir einen Liebesblick« (No. 9) »Du wunderliche Tove!« (No. 10) Orchester-Zwischenspiel (No. 11) »Tauben von Gurre! Sorge quält mich!« (No. 12)
Teil II
»Herrgott, weißt du, was du tatest« (No. 1)
Teil III
»Erwacht, König Waldemars Mannen wert!« (No. 1) »Deckel des Sarges klappert und klappt« (No. 2) »Gegrüßt, o König, an Gurre-Seestrand!« (No. 3) »Mit Toves Stimme flüstert der Wald« (No. 4) »Ein seltsamer Vogel ist so 'n Aal« (No. 5) »Du strenger Richter droben« (No. 6) »Der Hahn erhebt den Kopf zur Kraht« (No. 7) Des Sommerwindes wilde Jagd Orchester-Vorspiel (No. 8) Melodram: »Herr Gänsefuß, Frau Gänsekraut« (No. 9) »Seht die Sonne« (No. 10)

異常なほどに芸術的で、これまでに一度として聴いたことのなかった響きの効果をもっている。
(アントン・ヴェーベルン、1912年)
シェーンベルク作曲《グレの歌》の初演は、実際、比類のない勝利を収めた。近い将来のコンサート・ホール史に、これに匹敵し得るものはありそうもないほどの勝利であった。
(新ウィーナー・ジャーナル、1913年)

《幸福な手》作品18(1910‐1913)――音楽付きドラマ――アーノルト・シェーンベルクによるテキスト、音楽、舞台セットデザイン 1. Bild: Die Bühne ist fast ganz finster. Vorn liegt der Mann, das Gesicht am Boden. Auf seinem Rücken sitzt ein katzenartiges Fabeltier 2. Bild: Ein etwas größerer Bühnenausschnitt; tiefer und breiter als der erste. Im Hintergrund eine zart lichtblaue, himmelartige Leinwand. Unten links, ganz nahe dem hellbraunen Erdboden 3. Bild: ...Nun ist bei vollständig ausgenützter Bühnentiefe und -breite folgendes Bild zu sehen: Wilde Felsenlandschaft; schwärzlichgraue, mit wenigen Nadelbäumen (die silbergraue Äste haben) bewachsene Felsen... sowie die Scene erhellt ist, sieht man den Mann aus der Schlucht heraussteigen 4. Bild: Das Bild von der ersten Scene

象徴的であるように表されるのではなく、ただ、気づかれ、感じられるだけです。〔…〕私が、魔法劇のために書きたいすべてのうちのほとんどが。
(シェーンベルクからアルマ・マーラー宛、1910年)

《心の茂み》作品20(1911)――高音ソプラノ、ハープ、チェレスタとハルモニウムのための――

私たちは、ほとんど夢に描いたこともない響きに、夢中になりました。本当に素晴らしい。あなたの作品はすべて、初めて聴く者に先例のないセンセーションを巻き起こします。
(アルバン・ベルクからシェーンベルク宛、1928年)

1915 – 1919

1915年9月。ウィーンへ帰郷。アルマ・マーラーの友人、リリー・リーゼルの招きで。シェーンベルク一家は、ヒーツィングのグロリエッテ通りに居を定める

シェーンベルクは、また以前のように、すばらしいアイデアを抱いているよ。〔…〕ある協会を設立しようというのさ。その使命は「マーラーから現代まで」、つまり協会メンバーまでの音楽を毎週上演するというものだよ。
(アルバン・ベルクから妻ヘレーネ宛、1918年7月1日)

「私的演奏協会」は、新しいアイデア育成とその型にはまらない、慣習的でない構造によって、新たな基準を設定している。演奏される作品リストが、前もって発表されることはなく(“一定の出席率を確実にする”ために)、作品はくり返し演奏された。また、芸術家や芸術愛好家に、現代音楽の本物の、的確な知識を供するため、この協会コンサートは公衆に開かれたものではなかった。支持や非難の表明は禁じられていた。

1918年から1920年の間、 シェーンベルクはシュヴァルツヴァルト学校で100人を超える生徒を教える。この学校は、教育改革者オイゲーニエ・シュヴァルツヴァルトによって設立され、指導されていた

1915年、アーノルト・シェーンベルク徴兵

1918年春、ウィーンの南に位置する小さな町 メートリンクへ転居

オラトリオ《ヤコブのはしご》――ソロ、合唱とオーケストラのための―― »Ob rechts, ob links, vorwärts oder rückwärts« »Ohne zu fragen?« »Gleichviel! Weiter!« »Du bist immerhin zufrieden mit dir« »Dies Entweder und dies Oder« »Gegen seinen und euren Willen« »Ich sollte nicht näher, denn ich verliere dabei« »Herr, verzeih mir meine Überhebung!« »Herr, mein ganzes Leben lang« »Nahst du wieder dem Licht?« Großes symphonisches Zwischenspiel

あなたの作品によって、私には曇りなく、はっきりと分かりました。人間の運命が、まさにどのようなものであるか。
(アントン・ヴェーベルンからシェーンベルク宛、1917年)
宗教。この数年間、それだけが私の唯一の支えです。
(シェーンベルク、1922年)

1920 – 1924

セレナード 作品24(1920‐23)――クラリネット、バス・クラリネット、マンドリン、ギター、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロと低男声のための―― 1. Marsch 2. Menuett. Trio 3. Variationen. Thema 4. Sonett Nr. 217 von Petrarca 5. Tanzscene 6. Lied (ohne Worte) 7. Finale

ほとんど、モーツァルトと比肩し得るでしょう。〔…〕軽いセレナードの性格が、大胆な組み合わせや巧妙な対位法音型にもかかわらず、作品全体のなかに保持されています。
(エルヴィン・シュタイン、1924年)

5つのピアノ曲 作品23(1920/23) Nr. 1: Sehr langsam (1920) Nr. 2: Sehr rasch (1920) Nr. 3: Langsam (1923) Nr. 4: Schwungvoll (1920/1923) Nr. 5: Walzer (1923)

1920年9月から1921年3月まで、シェーンベルクはオランダのザンドヴォールトで過ごす。 私的な教授のため.

反セミシズム(反ユダヤ主義)の攻撃。1921年夏、アーノルト・シェーンベルクはザルツブルクの避暑地マットゼーを立ち退くことを余儀なくさせられる。

休暇の終わりごろ、マットゼーはとても不快なものとなりました。当地の人々は、私をひどく軽蔑しているようでした。あたかも私の音楽を知ったかのように。
(シェーンベルクからアルバン・ベルク宛、1921年7月)

ピアノ組曲 作品25(1921‐1923) プレリュード、最初に書かれた写譜は1921年7月24~29日の日付、於、トラウンキルヘン。「ただ互いにのみ関連付けられる12の音による作曲法」を用いたシェーンベルク最初の作品 Nr. 1: Präludium Nr. 2: Gavotte – Nr. 3. Musette Nr. 4: Intermezzo Nr. 5: Menuett. Trio Nr. 6: Gigue

シェーンベルクの妻マティルデ、 1923年10月18日死去.

1924年8月28日、 シェーンベルク、ゲルトルート・コーリッシュ(1898‐1967)、彼の生徒ルードルフ・コーリッシュの妹)と結婚

これほど幸せであることが許されるのはなぜか、私には分からなかった。
(シェーンベルク、1924年)

管楽五重奏曲 作品26(1923/24)――フルート、オーボエ、クラリネット、ホルンとファゴットのための―― シェーンベルクの孫アーノルト“坊や”に献呈 1. Satz: Schwungvoll 2. Satz: Anmutig und heiter; Scherzando 3. Satz: Etwas langsam (poco Adagio) 4. Satz: Rondo

その主題的作品、いくつかの副次的なアイデアの違いを浮き立たせる労作〔…〕は古典派を思わせます。
(フェリックス・グライズレ、1925年)

1925 – 1929

組曲 作品29(1925/26)――小クラリネット、クラリネット、バス・クラリネット、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとピアノのための――“親愛なる我が妻” 1. Ouverture. Allegretto 2. Tanzschritte. Moderato 3. Thema mit Variationen 4. Gigue

豊富な音楽的アイデア〔…〕最高の秩序の傑作。
(エルヴィン・シュタイン、1927年)

4つの小品 作品27(1925)――混声合唱のための―― 1. Unentrinnbar (Arnold Schönberg) 2. Du sollst nicht, du mußt (Arnold Schönberg) 3. Mond und Menschen (von Tschan-Jo-Su aus: »Die chinesische Flöte«) 4. Der Wunsch des Liebhabers (von Tschan-Jo-Su aus: »Die chinesische Flöte«)

《3つの風刺》作品28(1925/26)――混声合唱のための―― 1. Am Scheideweg (Arnold Schönberg) 2. Vielseitigkeit (Arnold Schönberg) 3. Der neue Klassizismus (Arnold Schönberg)

もっぱら、現在の音楽というものは、未来にも属するものでなければなりません。
(シェーンベルク、1926年)

アーノルト・シェーンベルクは、 ベルリン芸術アカデミー作曲マスタークラスの教授に任命される。フェルッチオ・ブゾーニ(1866‐1924)の後任として

管弦楽のための変奏曲 作品31(1926‐28) Introduktion: Mäßig, ruhig Thema: Molto moderato 1. Variation: Moderato 2. Variation: Langsam 3. Variation: Mäßig 4. Variation: Walzertempo 5. Variation: Bewegt 6. Variation: Andante 7. Variation: Langsam 8. Variation: Sehr rasch 9. Variation: L’istesso tempo; aber etwas langsamer Finale: Mäßig schnell

それらの変奏曲は、個別の様相を物語る場所や風景から、いくつかの場面を収めたアルバムのようなものです。
(シェーンベルク、1931年)

弦楽四重奏曲 第3番 作品30(1927)エリザベス・スプラーク・クーリッジ夫人に献呈 1. Satz: Moderato 2. Satz: Adagio 3. Satz: Intermezzo. Allegro moderato 4. Satz: Rondo. Molto moderato

どれほどくり返し言っても、多すぎることはないのです。つまり、私の作品は、十二音での「作品」であり、「十二音」の作品ではないのです。
(シェーンベルクからルードルフ・コーリッシュ宛、1932年)

『聖書の道』(1926‐1927)――舞台スケッチ付き、シオニズムの戯曲――

ユダヤ教によって経験された状況が、それを有能な者たちの責務とさせたのです。つまり、我らの民が存在し続けるために、有能な皆が、持てる力すべてでもってやり遂げることを。
(シェーンベルクからマックス・ラインハルト宛、1933年)

《今日から明日まで》作品32(1928/29)――1幕のオペラ、台本マックス・ブロンダ(ゲルトルート・シェーンベルクの筆名)―― Mann »Schön war es dort!« Frau »Ihr habt euch also über mich unterhalten?« Frau »Nun werde ich mir auch die Haare färben« Frau »Glaubst Du wirklich, du kannst mich erwärmen« Frau »Aber wirklich: verstündest du mich,...« Frau »So werde ich dazu singen« Mann »Liebste, der Gasmann ist draußen!« Sänger »Sie, gnädige Frau, am Telephon?« Frau »Soll ich wieder ich sein?« Frau »Baby, lies, was auf dieser Schachtel steht« Freundin und Sänger »Oho, oho, oho, was seh’ ich da?« Frau »Wir vielleicht schon verblaßte«

《今日から明日まで》は、軽いコミック・オペラとなるよう意図されています。ある一日からその翌日までのあいだに起こることだけの回想。つかの間の、永続的でない何か。
(シェーンベルク、1930年)

1930 – 1934

ピアノ曲 作品33a,b(1929/31)
その楽器上での組み合わせは、まったく思いがけないもので、色彩豊かです。さらに、その響きは人の心を動かすような魅力をもっています。
(エルゼ・クラウス、初演時のソリスト、1932年)

映画の一場面への伴奏音楽 作品34(1929/30)迫りくる恐怖―危険―破局

人々はどうやら、その曲が好きなようです。楽曲の質について、私は、その点から何らかの結論を引き出すべきでしょうか?
(シェーンベルクからハインリヒ・ヤロヴェッツ宛、1931年)
私は、長いこと に住んでいました。私の健康のためであり、そのせいでもあります。しかしまた、目下のところ、ドイツに戻る気がまったくしないような政治的状況が、その理由でもあります。
(シェーンベルクからヨーゼフ・アッシュ宛、1932年5月)

《モーゼとアロン》(1923‐1937)――三幕のオペラ―― I. Akt
Moses Berufung (1. Scene) Moses begegnet Aron in der Wüste (2. Scene) Moses und Aron verkünden dem Volk die Botschaft Gottes (3. Scene) »Bringt ihr Erhöhrung« (4. Scene) »Allmächtiger, meine Kraft ist zu Ende« »Ein Wunder erfüllt uns mit Schrecken« »Erkennt euch darin« »Er hat uns auserwählt« Zwischenspiel
II. Akt
Aron und die 70 Ältesten vor dem Berg der Offenbarung (1. Scene) Das goldene Kalb und der Altar (2. Scene) Aron: »Dieses Bild bezeugt« Feierlich (Takt 320) Tanz der Schlächter Eine Kranke: »O Götterbild!« Rasch (Takt 497) Orgie der Trunkenheit und des Tanzes 4 Nackte Jungfrauen: »O goldener Gott« Ziemlich rasch (Takt 824) »Moses steigt vom Berg herab« (4. Scene) Moses und Aron (5. Scene)
III. Akt (not composed)

《モーゼとアロン》は、私の主要作品の一つです。その素材と取り扱いは、純粋に宗教的、哲学的性質のものです。
(シェーンベルク、1951年)

1933年4月7日、「職業官吏再建法」可決。この法律が、国家社会主義者(ナチス)の指導者たちに、ユダヤ人公務員たちを その地位から強制的に退去させることを可能とした。

 3月18日、芸術アカデミーの会合で、明確な発表がなされました。それで、私がここで主要な地位に残り続ける望みはもはやないことが、明らかとなりました。プライドと自身の業績への自覚が、かなり以前に、自発的な辞任へと私を動かしていたのでしょう。〔…〕私の学生は、(もしその感覚を維持する方法を知っていれば)人生のいかなる状況においても自身の誉れとなる、芸術の真剣かつ倫理的な観念の感覚を、いったい誰から得たというのでしょうか!
(アーノルト・シェーンベルクからプロイセン芸術アカデミー宛、1933年3月20日)

アーノルト・シェーンベルクのユダヤ教への再改宗を示す記録資料。証人マルク・シャガール、1933年7月24日、パリ。

私は、いま、自分自身を誇りある一人のユダヤ人と見なしています。しかし、真にそうであることが如何に難しいかを知っています。
(シェーンベルク、1932年)

ドロテーア・ヌリアの誕生。1932年5月7日、バルセロナ

その子は、もちろん「父親そっくり」です。その美しさに関する限りは。
(シェーンベルク、1932年5月)

ドイツを離れる最終準備、そして1933年5月17日夜のせわしく性急な出発。ルードルフ・コーリッシュからの「転地」を忠告する電報の後

シェーンベルクのパスポート。アメリカ、ニューヨークに入国するための一時的なビザ付きパスポート、1933年

ル=アーブルからの船旅の後、 シェーンベルク一家は、1933年10月31日にニューヨークに到着。アーノルト・シェーンベルクが再びヨーロッパに戻ることはない

組曲 ト長調(1934)――弦楽合奏のための古様式による―― 1. Satz: Ouverture. Fuga 2. Satz: Adagio 3. Satz: Menuett. Trio 4. Satz: Gavotte 5. Satz: Gigue

この作品はさしあたり、「無調性の毒」による害に学生たちをさらすことなく、現代的な感覚へと導く和声体系の範囲内で、現代的な演奏技術のための準備となる作品です。
(シェーンベルク、1934年)

1933/34年、シェーンベルクは、ボストンとニューヨークのモールキン音楽院で音楽理論と作曲を教える

生徒は12‐14人。完全な初心者も交じっています。
(シェーンベルク、1934年)

1934年、アーノルト・シェーンベルクは東海岸で教え続けていたが、その間、重大な健康問題と闘っていた。この年の9月、妻と子供とともに カリフォルニアに移住

1935 – 1939

1935年12月24日、シェーンベルクの生徒、アルバン・ベルク死去

ヴァイオリン協奏曲 作品36(1934‐1936)――ヴァイオリンとオーケストラのための――「我が親愛なる友、戦友、アントン・フォン・ヴェーベルン博士」に献呈される 1. Satz: Poco allegro 2. Satz: Andante grazioso 3. Satz: Finale. Allegro

この作品を学び演奏することで、人は20年若返ります。
(ルイス・クラスナー、1940年)

西海岸に到着するとすぐ、シェーンベルクは、初めのうちは、個人的に学びに来る6人の生徒たちで構成されるクラスを一つ教えていた。そこにはジョン・ゲージもいた。1935年と36年、シェーンベルクは南カリフォルニア大学で作曲の客員講師となる

1936年の秋に始まり、1944年に定年するまで、シェーンベルクはカリフォルニア大学ロスアンジェルス校(UCLA)で教える

弦楽四重奏曲 第4番 作品37(1936) 1. Satz: Allegro molto; energico 2. Satz: Comodo 3. Satz: Largo 4. Satz: Allegro

私はその作品に大変満足していますし、第3番よりもいっそう心地よいものとなるだろうと思っています。しかしながら…私は常にそう信じているのですけれど!
(シェーンベルクからエリザベス・スプラーク・クーリッジ宛、1936年)

1936年、シェーンベルク一家、ブレ ントウッドに転居。ノース・ロッキングハム通り116

私たちは、庭付きの美しい家を見つけました。
(シェーンベルクからゲルトルート・グライズレ宛、1936年5月21日)

息子ルードルフ・ローランド誕生、1937年5月26日、ロスアンジェルス

ロニーは、とても愛らしく利口です。とても音楽のセンスがあり、すべてを聞き覚えで、自分でピアノで演奏します。和音さえも。
(シェーンベルク、1941年)

《コル・ニドレ》ト短調 作品39(1938)――語り(ラビ)、混声合唱とオーケストラのための――

私の主な課題の一つは、〔…〕その天命に、法の荘厳さ、「布告」の威厳を与えることでした。これは、シナゴーグでもコンサート・ホールでも、非常に効果的であるに違いないと考えています。
(シェーンベルク、1941年)

室内交響曲 第2番 変ホ短調 作品38 (2台ピアノのための編曲 作品38B)(1906‐1916/1939) 1. Satz: Adagio 2. Satz: Con fuoco

旧様式への思慕が、常に私に影響を与えていました。そして、時あるごとに急き立てる何かに、私は屈することを余儀なくされたのです。そうして、ときおり、私は調性音楽を作曲するわけです。
(シェーンベルク、1948年)

1940 – 1944

シェーンベルク、1941年に アメリカの市民権を取得

レチタティーヴォによる変奏曲 ニ調 作品40(1941)――オルガンのための――

私はこの音楽を、オーケストラのために書く場合とほとんど同じ手法で書きました。〔…〕もちろん、オルガンのために書かかれるものとしては一般的ではない手法です。
(シェーンベルク、1944年)

《ナポレオンへのオード》作品41(1942/43)――弦楽四重奏(オーケストラ)、ピアノと語り手のための、詞バイロン卿――

ナチの哲学に関する、より深遠な意義について、私は長いこと熟考してきました。〔…〕それが、専制政治に反対の態度を取る知識階級の道義的義務だったのだと、私は知りました。
(シェーンベルク、1942年)

ピアノ協奏曲 作品42(1942)――ピアノとオーケストラのための―― Andante Molto Allegro Adagio Giocoso (moderato)

音楽史の画期的事件の一つ。
(レオポルト・ストコフスキー、1944年)

息子ローレンス・アダム誕生、1941年1月27日、ロスアンジェルス

私たち皆、シェーンベルク夫人、ヌリア、ローランドそして私は、我が家の発展をとても喜んでいます。
(シェーンベルク、1941年)

『作曲における初心者のための範例』、1942

この摘要(シラバス)の主要目的は以下の通り。耳のトレーニング、形式感の発展、そして音楽的構造の技術と論理の理解。
(シェーンベルク、1943年)

主題と変奏 作品43a(1943)――吹奏楽のための――(管弦楽編曲、作品43b)

そのような楽曲を書く約束をしたとき、私の独自の書法はあまりにも難しいだろうと、すぐに分かりました。〔…〕それゆえに、教育上の使命を解決しようと決心したのです。
(シェーンベルク、1944年頃)

シェーンベルクは、UCLAの名誉教授に任命される。 個人的に教え続ける

1945 – 1951

弦楽三重奏曲 作品45(1946)――ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための――  Part 1 (T. 1) Episode 1 (T. 52) Part 2 (T. 133) Episode 2 (T. 180) Part 3 (T. 208)

私が冗談めかして、「私の宿命」と呼んでいる出来事から、今年の8月2日で、3年になります。〔…〕私は、最悪の状態を乗り越えた後すぐに、三重奏曲の作曲を始めました。この曲について、私は多くの人々に、私の病の「ユーモラスな」再現だと語ってきました。
(アーノルト・シェーンベルク、1949年)

《ワルシャワの生き残り》 作品46――語り手、男声合唱とオーケストラのための――

今、《生き残り》のテキストが私に表すこととは。第一に、それは、私たちに起こってきたことを決して忘れないようにという、すべてのユダヤ人への警告を意味するのです。
(シェーンベルク、1948年)

前奏曲 作品44(1945)
――混声合唱とオーケストラのための、聖書の「創世記」に基づくカンタータへの前奏――

1945年9月15日、シェーンベルクの生徒アントン・ヴェーベルン死去

シェーンベルク、エルサレムのイスラエル音楽アカデミーの名誉学長に任命される

『対位法での予備課題』、1942‐1950

生徒の精神を鍛えること、形式とバランスの感覚や音楽理論の理解力を与えること。これが、この論文の主要な目的です。
(シェーンベルク、1950年)

『和声の構造的機能』、1939‐1948

この本には、私が『和声学』のなかで述べたような、和声の教授法が、凝縮した形で含まれています。
(シェーンベルク、1948年)

『音楽作曲の基礎』、1937‐1948

この著作は、徹底的に実践用に書かれています。述べられている一つ一つの忠告やプロセスが、巨匠作曲家たちのやり方を分析することで、注意深く立証されているけれども。
(ジェラルド・ストラング、1954年)

《千の3倍の年》作品50A(1949)――ア・カペラ混声合唱のための――

デ・プロフンディス〔深き淵より〕作品50B(1950)――ア・カペラ混声合唱のための『詩篇』――

《現代詩篇》 作品50C(1950)――語り手、混声合唱とオーケストラのための――

エッセイ集 『スタイルとアイデア』の出版、シェーンベルクの弟子ディカ・ニューリン編集、フィロゾフィカル・ライブラリー、ニューヨーク、1950

アーノルト・シェーンベルク、1951年7月13日、ロサンジェルスで 死去

My deepest appreciation to the translator Dr. Mikako Akutsu and her supervisor Prof. Dr. Higuchi for making this Japanese version of the Explore Arnold Schoenberg website a reality.
Lawrence Schoenberg