アーノルト・シェーンベルク 自らを語る

私は、心で感じることを書き記します。ですから、最終的に紙の上にあらわれているものは、先ずは、私の全細胞組織を貫いて出てきたものなのです。
しかし、私はアイデアの拡声器ではありません。アイデアは、空気中に存在する電流なのです。それはジュピターからもたらされるのかもしれませんし、宇宙からかもしれません。十分な証拠はありませんが。
旧い音楽と現代の音楽というような区別はなく、あるのは良い音楽と悪い音楽という区別です。
言語学者であり哲学者、文学通にして数学通であるダーヴィト・バッハは、また、よい音楽家でもありました。彼は、私の性格形成に重要な役割を果たした人物です。私が、陳腐な大衆性への抵抗力を具えるに必要な倫理感や意気込みをもち得る、正直で率直な性格になる手助けとなったのです。
…私の作曲作品のいくつかが、“純粋な”十二音であるのか、そもそも十二音であるのか、私は尋ねられてきました。実際のところ、私には常に分からないのです。私は理論家である以上に、作曲家なのです。そして、私は作曲するとき、すべての理論を忘れようと努めます。私は、自身の精神を解放した後、ようやく作曲を続けるのです。(『私の進化』)
音楽は、それを歌いながら歩いている時に理解されるにすぎず、その音楽を覚えたまま眠りに落ち、翌朝の目覚めの際にまだそこにあるとき、ようやく愛されるにすぎないのです。
私は、内在する力のとりこなのです。私が受けた教育よりもいっそう強くその影響を受けているのです。
Great art presupposes the alert mind of the educated listener
市場価値は、本質的な価値とは無関係です。…不適当な判断は、せいぜい市場価値を決定すると主張できるくらいのものです。つまり、そういった価値というものが、本質的な価値とはまったく釣り合わないことはあり得るわけです。
私の作品は、聴衆の耳と頭に私の音楽が入り込む際に、判断されるべきでしょう。読者の目に示されているときではありません。
私は、モーツァルトに本当に、本当に多くを負っています。例えば、私が弦楽四重奏曲を書く際に用いている方法を研究すれば、この手法を私が直接モーツァルトから学んだこを否定できないでしょう。そして、私はそれを誇りに思っています!
私は授業の中で、単に「私が知っていることを語ろう」としたことは一度もありません。彼らが知らなかったことを、彼らに伝えるほうがより最善でしょう。もっとも、それが私の主眼であったわけでもないのです。生徒それぞれのために、新しい何かを案出するということが、私にとっては十分な根拠となったわけですけれども。私の努力とは、むしろ、彼らに問題の本質を徹底的に示すところにありました。慎重のあまりに、生徒の頭が混乱に陥るというような、堅固な規則を課したことは一度もありませんでした。すべてが、教師同様、生徒をも拘束することのない助言のようなかたちで、組み立てられていたのです。仮にその生徒が、それらの助言なしにもっと上手くできるなら、彼にはそうさせます。しかし、教師は、彼自身の誤りを認める勇気を持たなければなりません。教師は、絶対に正しいかのような態度をとってはならないのです。すべてを知り、決して間違うことのない人間であるかのようには。むしろ、教師は疲れを知らず、不断に探求し、おそらくは時には発見すらしなければならないのです。なぜ、神格化された人物のふりをするのでしょう?むしろ、なぜ、完全な人間たろうとしないのでしょうか?
このメッセージは、賢明な読者たちに向けられています。現代音楽を理解し享受する唯一の方法は、できるかぎり頻繁にそれを聴くことです。聴く、聴く、それを聴く。100回。これが唯一の方法です。今の世代は保守的で、ある種の音階、調や和音の組み合わせに慣れています。その結果、彼らの聴取は常に、そういったステレオタイプ化された路線に沿ってきたのです。新しい世代は、モダンなイディオムを「捕らえる」かもしれません。慣例によって、それほど邪魔されてはいないので。しかし、現代音楽を理解するためには、学ばねばなりません。現代音楽は、ほかのことと同様に、研究されるだけの価値のある科学なのです。
私は、自分の音楽を無調ではなく、むしろ、調的ではないと見なしています。私は、全ての調の統一を感じるのです。現代音楽家による無調音楽は、まったく調がないことを許容しますし、明白な中心という感じもありません。けれども、これは数学の問題ではないのです。音楽においては、絵画や建築と同様に、人が理解している何かよりむしろ、人が感じることが主題なのですから。
創造的な音楽家の主要な仕事のひとつに、聴衆に現代音楽の聴き方を教える努力があげられます。もちろん、これを行うには、聴衆が現代音楽に耳を傾ける機会を持たなければなりません。
私が教える際に、重要視しているのは耳の訓練です。音楽の学生は、たいてい、正確に聞き取れるように大いに学ぶ必要があります。すべての人が創造的な芸術家となるように教えることはできません。それは、教えられないのです。しかし私たちは、多くの人が聴く耳をもつ聴衆となるよう、教えることはできるわけです。すべての芸術において必要なことは、多くのすぐれたアマチュアなのです。
The big difference is that the progressive music of today is condensed. That is not to say that the ideas in the new music are better – the contrary may be true – but they are expressed more concisely, without repetition and elaboration.
The same principle of conciseness, condensation and simplicity applies, of course, also to modern literature and painting, as well as to music.
I like good popular music. I enjoy it for its entertainment but not when it is just a mechanical repetition of things that have been done over and over before: not just commercial mass production.
My deepest appreciation to the translator Dr. Mikako Akutsu and her supervisor Prof. Dr. Higuchi for making this Japanese version of the Explore Arnold Schoenberg website a reality.
Lawrence Schoenberg